「何が自分のものにできるの?」
「えっと…」
同じだ、と萌絵は気づいた。
他人の何を、自分のものにできるのか。
その実体は、何なのか。
同じ概念に自分は拘っている。
-『四季 秋』森博嗣著 講談社 2004年 P255より-
「慕うけど属さない」
自己分析をしていると、そんなキーワードが見えてくる。
以前、あるプロジェクトに関わった時に、マニュアルがないという事態に直面したことがあります。本来ならばマニュアルがあっていいものの筈が、それがないということを聞いた時に初めに感じたのは、その人に対する不信感とゼロから作ることの困難さでした。その時はマニュアルになるべく情報を探し出すことから始め、それなりに成果を出せたとは思っていますが、マニュアルがあればいらない苦労だったと考えていました。
でも逆に考えてみると、マニュアルがなくても代替する何かを探し出す自発性を身につけることができましたし、そのための“何か”を考えられるようになった気がします。そして、先送りではない“とりあえず”行動するということに抵抗が少なくなりました。そうすれば、その
“行動”が“基準”にもなりますから。うまくいけば一つの基準を手に入れることになりますし、失敗-うまくいかないのなら“修正”もしくは“微調整”をすればいいわけで。。。
もちろん、まだ全てにおいてできるわけではないですが、前向きに取り組む姿勢になるなど、成長の大きなきっかけのひとつだったと感じています。
また、今あるマニュアルや常識を“本気で”疑えるようになったことも大きいと思います。
これももちろん滅多矢鱈に疑うのではなく、うまくいかなかった時などに状況のせいにするだけでなく、マニュアル化されていたものが“本当に”適していたのか、その成り立ちを考えた時に“以前”は不必要とされていたものが“今”は必要になっているのではないか、などと考えるようになりましたね。
これは“方向修正”をするのとは違うと思っています。
無駄なことをやることで、伝聞では得られなかった“無駄な体験-いつか使えるかもしれない知識”を得ることができます。話の種のつもりが意外なひらめきや交流に結びついたり、その体験をした事で別のアンテナが立ち、新しい知識を得られるきっかけになりますから。
そしてそれは別の方向に進むということではなく、目指す方向へ進むための手助けとなる別の方法を模索することのような気がします。
振り返ってみると昔から天邪鬼的なところはあって、言われたことだけをするのはどちらかというと苦手だった気がします。。。
例えば、先輩から何かを教えてもらう時も、自分が“必要と思った”ことは素直に従ってきましたが、“おかしい”と思った時は必ず理由を聞きましたし、納得がいかない時は意地でも聞かなかったですね。
仮にそれが正しかったとしても、その結論に至ったのは先輩の人生においてであって、自分には、もしかしたら、まだ必要のないものだということを直感的に感じていたのかもしれません。
もちろん、その人に対する“敬意”は示していましたので、わかって下さる方も多かったです。でも、悪く言えば生意気、よく言えば自分があるといいますか^^;
個人的には、“○○が言うから”という考え方は“宗教化”にも繋がる怖い考え方だと思っています。
そしてこれは、カウンセリングに於いても絶対に忘れてはいけない考え方です。
ラポール(絶対的な信頼関係)を築いた後に口にする言葉は相手を“依存”させる危険性を常に伴います。そのことを常に意識しながらカウンセリングを行う心構えを持たなければいけないのでしょう。
先日、SV(スーパーバイズ)を兼ねたカウンセリングを受けた時にもそのことについて色々と話しをしました。
「あなたは依存しないことを知っているから、こういうことを直接伝えることができるけど、相手によっては依存を引き起こす可能性があるので気をつけるように!」という厳しい言葉も受け取りましたしね^^;
敬意・感謝・自信、これらのバランスが取れたときに人は幸せを感じるのかもしれません。