水道管の例え話を思い出す。
「古い水道管に穴が開きました。
あなたならどうしますか?
水道管を直す or 穴を塞ぐ」
カウンセリングの勉強をしていて感じることは、本質に気付けるということ。
客観視することができるから、相手の行動パターンが読めるから、
なぜ問題が起きているのかを把握しやすくなる。
僕なら水道管を治すかな。
穴が開くということは、寿命が近づいているということだから、
遅かれ早かれ水道管を直すことになるのだから。
でも、会社レベルになると、穴を塞ぐという選択肢も生まれるわけで。
直すとなると、時間や労力などとても手間がかかるから、
“とりあえず”穴を塞いで様子を見ようという考え方。
すると、
「『穴押さえ係』という役職ができ、“必要な仕事”だと認識される」
ことになる。
しかし、よくよく考えると、それは“何も生み出さず”、
ただ“被害をどれだけ食い止めるか”であって生産性は無いに等しい。
悲劇はこの『穴押さえ係』が権力を持ったときに起こる。
「事前に新しい穴を発見する技術を導入する」とか、
「穴を押さえるという仕事の重要性のアピールをする」
こういった本質から外れたことに予算や人員を割くことになり、
頑張れど利益が上がらないというジリ貧の状態に陥ることになる。
もちろん、どちらを選ぶかは会社側が決めること。
しかし、本質をよく理解しないと方向修正は困難を極める。
“とりあえず”という先送りをすることによって、被害が広がり、
気がついた時には手遅れになっていることがほとんどだから。
何故なら、本質を見抜き穴を押さえることに嫌気が差した人は、
既に去ってしまっていることが多い筈。
穴を押さえることを、立派な仕事だと誇りを持って取り組んでいたのに、
それを否定されることは、自分を否定されることに等しい。
その中で改革や改善をすることは、とても痛みを伴うことになるのだろう。
今、あるプロジェクトに関わってこのことを痛感している。
たまに、無力感に苛まれることがあるが、多分これは、どこにでもあること。
かえって今のうちに、こういう経験を積むことによって、
今後のカウンセリング等にも活かしていけると感じている。
先の選択肢のどちらも間違いというわけではない。
自分がどちらを選び、周囲がどちらを選んだか、ということだけ。
もし苦しいと感じるなら、それは自分が“間違った”場所にいるということ。
周囲の考えに同調するように変わるか、もしくは、そこから去るか、
という選択をしなければいけないのかもしれない。
変えられるのは自分だけ。
相手を変えようとすることではなく、自分の見方を変えることが、
解決に繋がるのだろうな。